インボイス制度導入でどうなる? 税務調査の方針と留意すべきポイント
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佐賀県唐津市にある孝和建設2代目の栗原孝太郎社長を今回は訪ねた。まだ若干38歳にして、この地域の注文住宅業界で異彩を放っている。どんな人生を歩んできたのか。そのジェットコースターのようなこれまでの軌跡を紹介しよう。
大学卒業し入社したのは現在の株式会社リクルート(注1)。花の銀座で広告の新規顧客を取る営業に配属された。とにかくがむしゃらに広告を取りに行った。ノルマは半年で新規12社。結果は・・・11社。達成率92%!悪くない。いやむしろ新人にしては上出来だった。同期からも羨望の眼差しで見られ、すぐに天狗になった。
そんな時だ。上司にガツンと言われた。
「お前どうしてへらへら笑ってるんだ?目標は達成して当たり前、未達は未達だろう!」
スイッチが入った。そこから更に猛烈に仕事をして半年ほど経ったとき、ある電話がかかってきた。
和菓子屋の「たねや」の本社からだった。近江八幡にある滋賀県を代表する老舗が東京に出店しており、栗原氏が営業していたのだ。しかし「たねや」の決裁権は本社にある。一計を案じ、滋賀本社のFAX番号を聞いて、「栗原新聞」と題したレターを毎週月曜日に送った。
「リクルートを使わなくてもいいので、広告が上手くいった事例など参考にどうぞと」
かかってきた電話の主は先方の人事部長だった。
「いつもFAX送ってくれてありがとう。『栗原新聞』見てましたよ。栗原さんは近江商人みたいな人ですなぁ」
そう滋賀弁で言われた。
「どういうことですか?」
「『先義後利』先に義を尽くして利を後で求める。まさにあなたの姿勢に近江商人らしさを感じました。栗原さんの扱っている広告、全て最大サイズでお願いしますわ」
嘘のようなまことの話である。
大型受注になった。その半年後、最年少チーフとなり、部下も出来た。順風満帆かと思われた。
1年半くらいたって栗原氏は会社を突然辞めることになる。何が起きたのか。
新しい上司とそりが合わず、精神的に追い詰められたのだ。
「同期で一番の出世コースなのに、どうした?あんな上司なんてどうせすぐに変わるだろう」
友人は皆そう言った。しかし、栗原氏には人に言えない悩みがあったのだ。
「実は学生時代からパニック障害を持っていて、隠し隠しやっていたんです。調子のいい時はいいけれど、上司の圧が強くなったら症状が酷くなってきて・・・ダメだ、もう続けられないなと」
そのことは人に言っていなかった。周りからはタフそうに見られていた。
「お前、悩みなんてないだろ!」と。
幼い時のイジメや家庭環境が原因だった。いつも不安に苛まれていたが、人に悟られない様に陽気に振る舞う自分がいた。仮面を被って生きていた。
結婚を約束した人がいた。彼女を連れて博多へ。まずは新居だ。賃貸物件を探しに行った。しかし、不動産のおやじにぞんざいに扱われた。
「なんや、賃貸か。面倒くさ」
憤慨したが、「ビジネスのレベルが低すぎる・・・ひょっとしたらここに商機があるかもしれん」
そう思った。
土地の売買をやっていた父親の会社に賃貸事業部を立ち上げた。まだ24歳だった。ここでも栗原氏は知恵を絞る。契約してくれたカップルの写真を一眼レフで撮って加工し、2人から聞き出した思い出の言葉を添えて額に入れ、鍵引き渡しの時にプレゼントした。これが評判を呼んだ。口コミでお客さんの輪が広がり、事業も波に乗った。
「お客さんがどんどん増えたので、次は土地や中古住宅の売買をはじめたんです。そうなってくると家もやれるんじゃないかと。賃貸を1年くらいやって、売買から新築へと事業を拡大していったのです」
なんというバイタリティー。業界に染まっていないがゆえに、怖いもの知らずで爆走した。アイデアは次から次へと湧いてくる。他の業者のように土地を埋め立てて切り売りするのではなく、街づくりを提案し始めたのだ。
「道路をどんと広くとって、豊かな緑を街に入れて、ライトを灯してもらいました。田舎だから22時までライトアップすると明るい街になる。他の会社がやらないようなことをやろうと考えました」
そう、子どもたちが広い道で安心して遊べる。灯りで治安もよくなる。納得してお客さんが土地を買ってくれた。これまた評判を呼んだ。さあ、次は注文建築だ。これも自分がやればもっと面白い家が出来るはず。提案型の住宅が売れに売れ、29歳の時、3名だった従業員は10倍の30名に膨れ上がり、売上も10倍になった。気づけばこの地域で注文建築のシェアNO.1に。長男、長女、次男の3人の子宝にも恵まれ、父親から代表取締役の座を譲り受けた。
絵にかいたようなサクセスストーリー。だが、地獄が待っていた。
「天才だ!すごい!と言われて。王様でしたね」
どんどん若手を採用し、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。が、好事魔多し。会社の中がおかしくなってきた。
人に嫌われたくない。心の中の不安を悟られたくない。その性格は変わらないから、目標未達の部下に「愛ある上司」を演じ続けた。
「ドンマイドンマイ!頑張ったよね。いいよいいよ、オッケーオッケー!という感じでやってました」
ある時、成長がパタッと止まった。部下が栗原氏を軽んじるようになってきたのだ。
「社長、若いからなんも分かってないんじゃないか?あいつマネジメント能力ないし」
「俺ら頑張ってるのに、社長の戦略がよくないよね」
「社長って結局未経験だから、分かってないんだよ、この業界」
あれ、そんなはずじゃなかったのに・・・負のサイクルが回り始めたら止まらない。
「社長、ちょっといいですか?5分で済みますんで・・・」
1人、また1人と社員が辞めていく。30人規模の会社で、数年で入れ替わり立ち替わり、約30人のスタッフが辞めていった。
「バカ社長のもとにいるより、俺らでやる方が儲かるんじゃないか」
まるで「人材輩出企業」のようになってしまった。また新入社員の頃のパニック症候群が頭をもたげてきた。
「あいつはただ単に運がよかっただけの男だ」
「あいつは無能でこれまでいい社員がいてやってきただけだろう」
そんな声が聞こえてくる。
「もう人が信じられなくなって、本当にうつ状態だったと思います。朝の4時に目が覚めるんですよ。脂汗かいて、怖くて」
そんな時、長男の発達障害も見つかった。
「あぁ、もう終わった・・・」
会社を売ろうとか逃げ出そうとか真剣に思った。今だったら売り逃げできる。その時だ。子どもの友達が新築の家に遊びに来た時のこと。自分の子どもたちが、友達に胸を張ってこう言った。
「うちのパパは社長なんだよ!」
泣けてきた。妻にこう言った。
「俺本当にダメかもしれない。家族を幸せにできなくてごめん」
その時妻はこう返したという。
「私は幸せ。こんなに可愛い子どもが3人もいて何が不幸なの?何ならこの家売る?またアパートでもいいよ。きっと上手くいくよ。ちょうど私も働きたいと思ってたんだよね」
弱りに弱っていた栗原氏の心の中で、何かがはじけた。
それまで「人は裏切る。人は汚い」と思っていた栗原氏。その考えを180度変えた。
「裏切らせたのは自分だ」
自分が成長すれば変えていけるかもしれない。泥船みたいな状況でも自分を信じて辞めなかった人がいる。
「妻や、残ってくれた社員、信じてくれたお客さまを『正解』にしたいと思った」
もう逃げない、そう誓った。
「全ての言い訳をやめる」
朝礼でもパフォーマンスは一切止めた。
「全ての責任は俺にある。俺は弱い。でも弱いから、弱い人の気持ちが分かる」
全てをさらけ出した。
「ドンマイドンマイ」も止めた。
結果が出ない社員とはとことん話し合った。
「すごく頑張っているのは分かる。でも結果が出ないなら頑張り方や頑張る方向性を変えようよ」
そう語りかけるようにした。3~4年経ち、今に至る。いつしか、社員の離職は止まっていた。
そこで、理念をもう一回見つめ直した。
「何でこの会社は存在しているのだろう」
もともと、「ファイブスターエモーション」という理念があった。「五芒星」があって、自分、家族、会社、お客さま、地域の真ん中のところで仕事しよう、と言っていた。
「たねや」さんの「三方よし」の先を行く「五方よし」だと悦に入ってた。
ある時、どん底の時に本当に信頼してもらっていた取引先から自宅の注文を頂いた。しかし、引き渡しの時、なんと床下に水漏れが発生、水浸しになっていた。
「社長、建て直してくれんですか」
その人は悲しそうな顔でそう言った。
しかし。建て直したら会社が潰れる。「五方よし」などとのたまっていたが、何もできなかった。
「勘弁してください。しっかりアフターフォローしますので、どうか許してください」
そう言うのがやっとだった。
そして悟った。「力なき愛は無力だ」と。
ただ聞こえのいい上っ面の言葉で理念を語っていたと悟った。原点に帰ろう、そう思った。いい家づくりをする。そして出てきたのが「価値ある違いをつくる」という言葉だった。後に社是になる。
ただ他と「違う」だけではだめなのだ。人様にとってその違いは価値が無ければ意味がない。「価値ある違いをつくるため」にチャレンジして価値をつくり出し、ひいては街のサービスをよくしていこうと誓った。
今、取り組んでいるのは、「庭の設計」だ。建築会社が庭?
これまで設計士は家を設計しても、庭は業者に丸投げだった。それが業界の常識。
「え、なんで?我々が庭までつくった方が絶対いい家になるし、ストーリーが生れるじゃないか」
戸惑う社員を説得し、数年前から庭づくりに参入した。破天荒な栗原氏が帰ってきた。
確かに、家の設計を任せた会社が一緒に庭まで考えてくれたらこんなに嬉しいことはない。モデルルームに行ったら、ベランダにジャクジーがあったり、ウッドデッキにバーベキュースペースがあったり、ハンモックが吊るされていたりする。ちゃんと外から見えない様に目隠しされている。
「家庭という漢字は家と庭ですよね。今の家は、家と駐車場になっている。そうじゃない『家庭』をつくろう!と思ったのです」
そう、非日常を提供するのだ。「こんな家に住みたい!」とお客さまに思わせる家づくりがスタートした。
「我々は対症療法を提供するような建設会社ではない。ただ薬を処方するのではなく、診断するドクターになりたい」
利益率が上がり、収益は上向いた。
最近は旅館のコンサルティング兼建築の仕事に取り組んでいる。海が見える戸建てのヴィラを建てていたりする。デザイナーズ借家などという注文もある。
「どんどんどんどん、仕事の幅が広がっていっている感じですね。今度は行政の方と絡んで、街づくりとかできたらいいなと」
そう栗原氏は笑う。でも彼の夢に終わりはない。
「この地域になくてはならない存在になりたい、と思ってきたけど、それは永遠に達成しないと思う。なぜなら地域には終わりがない。唐津の次に佐賀県、その次に北部九州、そして九州全体、日本全国と変えていきたい」
アジアも視野に?
「そうなれれば最高ですね。東アジア、もっと行って宇宙とか(笑)。志は達成したら慢心してしまう。なので高ければ高いほどいい。追いかけても追いかけても届かない方が、俺はまだまだだ、と思える」
最後に栗原氏はこう言った。
「人は変われるということです。諦めずに困難に向かい合っていけば、また立ち上がることができる。」
注1) 当時、リクルートはホールディングス持ち株会社で、事業は分社化されていた。求人広告の部署はリクルートHRマーケティング、リクルートジョブズと名前を変え、現在はリクルートに再度統合されている。
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